深谷市ゆかりの人物

中の家
渋沢栄一
(1840年〜1931年)
江戸時代末期(幕末)から昭和初期にかけての
日本の幕臣、官僚、実業家。

渋沢史料館 所蔵

深谷(血洗島)で生まれた偉大な人物

近代日本経済の父といわれる渋沢栄一は、天保11(1840)年現在の深谷市血洗島の農家に生まれました。幼い頃から家業である藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、5、6歳の時に父:市郎右衛門から学問の手ほどきを受けました。7、8歳になると下手計の従兄の尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする四書五経を習いに通いました。

20代で攘夷思想を抱き、惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕官することになりました。

一橋家で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学し、欧州諸国の実情に触れることができました。明治維新となって帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立し、その後明治政府の大蔵省に仕官します。栄一は富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関わりました。大蔵省を辞めた後、一民間経済人として株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、約500もの企業の設立に関わったといわれています。
また約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。

渋沢市郎右衛門

当時疲弊していた「中の家」を再興

市郎右衛門は、渋沢一族の中でも「東の家」とよばれる家の二代目当主:宗助(宗休居士)の三男元助として生まれました。本来は、学問を好み、江戸に出て学問をしようと考えていましたが、当時疲弊していた「中の家」の再興に力を尽くすようにという二代目当主:宗助の言いつけを守り、江戸留学を断念し 「中の家」に婿入りして家業に励みました。

家業である藍玉づくりにおいて非常に重要な藍葉の鑑定にかけては、近郷随一との評判を得ており、持ち前の勤勉さも相まって、栄一が育つ頃には血洗島村では一番の物持ちが「東の家」、次が「中の家」といわれるまでに家の再興を果たしました。

機をみて栄一を支援

渋沢市郎右衛門 染物業者との取引帳簿 「藍玉通(1852~1875)」
渋沢史料館所蔵
最初に栄一に学問の手ほどきをしたのは市郎右衛門でした。また、市郎右衛門は栄一を教え諭す際に、「論語」の一節を引用するなど、のちの栄一の考え方の基礎をつくりました。そんな市郎右衛門は、栄一の転機や危機にあたっては、家長としてまた父としてしっかりと受け止め、栄一を支援しました。
文久3(1863)年、栄一らは高崎城のっとりをはじめとする挙兵計画を断念し、郷里を出奔せざるを得なくなりますが、市郎右衛門は道中の路銀にと栄一に百両の大金を持たせます。また、慶応3(1867)年正月、栄一は、パリ万博使節団の一員として渡欧します。しかし、幕政が傾く中、幕府から滞在費の送金が途絶えがちになり、これを憂慮した栄一は遠くパリから手紙で父の市郎右衛門に資金援助を願い出ます。これに対し、市郎右衛門は、家財一切を処分し、これに応えることを約束します。幸い、幕府の瓦解とともに、帰国命令が出たためこれは実現することはありませんでしたが、市郎右衛門が栄一に示した深い愛情が表れています。

渋沢えい

慈悲深い栄一の母

栄一の母えいは、「中の家」の長女で「東の家」から元助(市郎右衛門)を婿に迎え、ともに中の家を支えました。えいは、慈悲深い性格として伝わる逸話が残されており、特に当時まだ治療法などが確立していなかったハンセン病を患った村内の女性を親身に面倒をみた話がよく知られています。当時、隣村の下手計(しもてばか)村の鹿島神社の境内には、樹齢五百年を超えるといわれた大ケヤキの木がありました(現在は、一部現存)。その根元の空洞に湧きだす清水を使った共同風呂へ、えいはその女性をよくそこへ連れて行っては体を流してやったといわれています。

こうした、母:えいの資質は、のちに、人の扱いが丁寧・親切であったといわれる栄一の人柄にもつながるものといえるのではないでしょうか。

渋沢てい

渋沢てい

渋沢栄一記念館 所蔵

栄一に代わり「中の家」を守る

栄一の妹:てい(貞子)は、嘉永5(1852)年に生まれ、栄一とは12歳年が離れた妹。東京に活動の拠点を移した栄一に代わり、「中の家」を守りました。現在、深谷市には、ていとその夫の市郎によって明治28(1895)年に建てられた旧渋沢邸「中の家」が残っており、当時この地域に特有な養蚕農家のたたずまいを備えています。

また、てい夫妻の長男:元治は電気工学の権威として、次男:治太郎は村長・県議会議員としてそれぞれ偉大な業績を残しています。

新屋敷

渋沢喜作

渋沢喜作

渋沢史料館 所蔵

栄一と最も深く関わった従兄

渋沢喜作は、「東の家」2代目宗助の次男:文平の子として生まれ、従兄弟にあたる栄一とは幼いころから交流を持ち、栄一が「用意周到」であれば喜作は「剛毅果断」といったように、互いの特性を生かしあうようにその関係は長く続きました。

文久3(1863)年、従兄弟の惇忠や栄一らとともに図った高崎城乗っ取り・横浜異人館焼き討ちを断念するに至ります。その後、幕府の探索を逃れるため江戸遊学中に知り合っていた一橋家用人平岡円四郎の計らいで、一橋家に仕えることとなります。一橋家仕官後、栄一は財政方面に、喜作は軍事方面でそれぞれ能力を発揮していきました。2人とも競い合うように次々と昇進を果たしていきますが、殊に江戸幕府という枠組みの中においては喜作がいつも半歩ほどリードしていたようです。慶喜が、将軍職に就任すると喜作は「奥祐筆(おくゆうひつ)」という将軍最側近の地位にまでのぼりつめました。

江戸幕府の終焉と喜作

慶応4(1868)年、幕府側と薩摩・長州勢との間に京都で戦端が開かれ(鳥羽・伏見の戦い)、喜作は軍目付(いくさめつけ)の重責を担いましたが、幕府側は総崩れになり、江戸へ引き返すこととなりました。

渋沢喜作 一橋(徳川)慶喜
渋沢史料館 所蔵
慶喜は、朝廷に対し反抗の意志がないことを示すため、上野の寛永寺で謹慎。喜作は慶喜の身辺警護を目的として、旧一橋家の家臣を中心とした「彰義隊」を結成し、その頭取となりました。しかし、隊内の方針の違いから慶喜の水戸退隠を見届けたのち、喜作たち一派は彰義隊を脱退しました。彰義隊を離れた喜作は「振武軍」を結成し頭取となりました(副頭取:尾高惇忠、中隊組頭:渋沢平九郎)。その後、新政府軍と彰義隊の衝突の報を聞いた喜作は、その援護のため上野に向かいますがその道中に、彰義隊が壊滅したことを知り、やむなく退却。箱根ヶ崎(現在の西多摩郡瑞穂町)を経て、飯能(現在の埼玉県飯能市)に至り、官軍を迎え撃つこととしました。しかし、圧倒的な戦力の差は埋められず半日のうちに壊滅、喜作は落ち延び、榎本武揚の軍とともに函館の五稜郭に立てこもり、徹底抗戦しました。

その後は、栄一の推薦で大蔵省に出仕し、辞職後は実業家としての道を歩み、横浜を代表する実業家のひとりとなり、栄一と喜作は生涯にわたって友情を貫きました。

渋沢よし

激動の人生を送った喜作を支えた妻

渋沢よしは上州那波(なわ)郡前河原村(現在の群馬県伊勢崎市)の福田彦四郎の家から渋沢喜作の妻として嫁いできました。喜作・よし夫妻以前にも福田家と渋沢一族との間には縁戚があり、特に「新屋敷の家」とはかかわりが深く、喜作の妹は、彦四郎のもとに嫁いでいます。

喜作は旧幕府方につき五稜郭で最後まで戦ったのち、およそ3年間にわたる獄中生活を過ごしました。この間、獄中の喜作を献身的に支えたのが、よしとその実家の福田彦四郎家の人々でした。よし自身についての史料はほとんど残されていませんが、激動の人生を送った喜作を一家で支えた人物でした。

尾高家

尾高惇忠

尾高惇忠

渋沢栄一記念館 所蔵

藍香(惇忠)ありてこそ青淵(栄一)あり

尾高惇忠は、天保元(1830)年武蔵国榛沢郡下手計村で生まれ、通称を新五郎、藍香と号しました。幼少より、書を好んだ惇忠は、家で塾を開き近隣の子弟に学問を教えていました。従弟である栄一も論語をはじめとした四書五経を惇忠から学び、学問の師として仰ぎ、のちに「藍香(惇忠)ありてこそ青淵(栄一)あり」といわれたように、栄一の青少年期に最も影響を与えた人物のひとりです。

尾高惇忠生家①

尾高惇忠生家②

尾高惇忠生家

水戸学に感化された惇忠は、尊王攘夷思想を抱くようになり、ペリー来航以降混乱する時勢の中で、1863(文久3)年に栄一や喜作らとともに高崎城乗っ取りの企てをはじめとした攘夷計画を立てます。しかし、長七郎の反対により計画は中止され、栄一は一橋家用人平岡円四郎の知遇を得ていたため京都へ逃れました。一方、名主を務めることから郷里に残った惇忠は、水戸天狗党とのつながりを疑われ、一時岡部藩の陣屋に入牢しています。しかし、その後、栄一が徳川慶喜に仕えると、栄一を通じて慶喜の英明さをしることとなり、1868(明治元)年官軍が江戸を目指すと、彰義隊や振武軍に参加し旧幕府側に立ち、飯能戦争を戦いました。

翌年に惇忠は、当時の岩鼻県(現在の群馬県の前身)農業用水(備前渠用水)の流路変更に関して、地元の代表として事件を解決に導きました。このことが政府高官に認められ、新政府で官営富岡製糸場の設立に深く関わることになります。富岡製糸場初代場長となってからは、特に工女の教育に重点を置き、一般教養の向上と場内規律の維持に努めました。1876(明治6)年、場長の職を辞した惇忠は、翌年栄一の依頼を受け第一国立銀行に入り、同行盛岡支店支配人、仙台支店支配人を歴任し、東北地方の産業の発展に大きく貢献しました。

尾高長七郎

多くの志士と交わった凄腕の剣士

尾高惇忠の弟。一家の長として家業を取りまとめる惇忠に代わり、江戸に出て剣術や漢学を学びながら諸方の志士と交わり、当時の最先端の情報に接していました。また、栄一の談話によれば、剣技に優れ、当時の日本でも1、2の剣名を謳われたといいます。

兄の惇忠や、従兄弟の喜作・栄一たちが高崎城乗っ取り・横浜異人館焼き討ちを計画した際には、長七郎はその見聞を基に計画の無謀を戒め、強く反対しました。計画は直前で取りやめとなり、のちに栄一は「私が生きのびて世の中の役立つような仕事ができたのは長七郎のおかげである」といって、感謝の言葉を残しています。

文武ともに優れた長七郎でしたが、元治元(1864)年、長七郎は誤って通行人を切ってしまい、江戸伝馬町の牢獄に囚われることとなります。慶応4(1868)年4月に赦されて、出牢しますが病によりその年の11月に郷里で亡くなりました。享年31でした。パリから帰国した、栄一はその死を悼み、自ら長七郎の墓を造営しその恩に報いました。

尾高千代

渋沢史料館 所蔵

栄一の従妹で、のちの妻

渋沢栄一の生地の隣村、下手計(しもてばか)村の尾高家の三女で尾高惇忠の妹。

養蚕や機織りなどの家業を専らとしましたが、兄の惇忠が近隣の子弟を集めて開く私塾に時には席を連ね、栄一や喜作らとともに学問を習いました。

栄一と祝言をあげたのは安政5(1858)年12月7日。結婚して数年経つと、栄一はしばらくの間深谷を離れることになりますが、その間も家をよく守り、千代の心変わりを不安に思った栄一との手紙のやり取りがしばしばあるなど、家族仲、その夫婦仲の良さが伺われます。

長女うたの談話によると、容姿は細身で美しかった反面、男勝りな性格で紡ぎや養蚕はもちろん、激しい農作業であっても人に後れを取ることはなかったといいます。栄一との間に二男三女を設けています(長男は早世)。美しく、快活な千代でしたが、明治15(1882)年7月14日、当時東京で大流行していたコレラに感染し、命を落とします。享年42という早すぎる死でした。

尾高平九郎

尾高平九郎

渋沢栄一記念館 所蔵

文武両道の美丈夫

尾高(渋沢)平九郎は、尾高家の末子。残された写真を見ると、堂々とした美丈夫であることがうかがわれます。惇忠や栄一と同じく剣の修行に励み、腕を磨きました。

栄一にとっては、従弟であり義弟にあたり、栄一渡欧の際には平九郎を見立て養子としました。これは幕臣が海外に出る場合、万が一のことを考えて必ず自分の跡継ぎを指名するという当時のならわしに則ったもので、栄一は妻千代との間に男子がいなかったことから、千代の弟である平九郎を指名することとなりました。

幕末に散った平九郎

大政奉還後、平九郎は惇忠とともに喜作らが組織した彰義隊に加わりました。その後、彰義隊内での意見対立から、喜作・惇忠らとともに新たに振武軍を結成し、その中隊組頭となりました。

慶応4年5月、上野戦争で彰義隊を破った官軍は振武軍追討に向かい、喜作ら振武軍は、現在の埼玉県飯能市の能仁寺(のうにんじ)を本陣とし、官軍を迎え撃つことになりました。しかし、圧倒的な戦力差のある官軍の前に全軍壊滅状態になり、平九郎も敗走。郷里を目指し現在の埼玉県飯能市と越生町にまたがる顔振峠を経て黒山(現在の埼玉県越生町)に至って敵兵と遭遇、単身敵兵を3人切り伏せましたが、自身も傷つき、逃げきれることができないことを悟った平九郎は自刃して果てました。のちに、遺骨の所在が判明すると栄一は、上野寛永寺の渋沢家墓所に埋葬し、その死を悼みました。

東の家

渋沢宗助

「文化人」と「経営者」の顔を持つ、渋沢一族の長

栄一の伯父である渋沢宗助(三代目・誠室)は、書・剣ともに奥義を極めた第一級の文化人でした。それとともに一族の長として経営の才覚に優れ、開港後間もない横浜で生糸・蚕種の海外貿易にも従事し、巨万の富を築きました。三代目宗助の時には、家運は隆盛を極め、村民から「大渋沢(おおしぶさわ)」と呼ばれるようになりました。

また、養蚕技術の改良にも熱心で、安政2(1855)年には、自ら著した「養蚕手引抄」という養蚕技術書を無料で配布したり、神社・仏閣の修繕や再興に助力したりするなど、社会公共への助力を惜しまなかったといわれています。
渋沢栄一の名付け親でもあり、栄一に書の手ほどきをしたのも、伯父の宗助でした。

村川絵梨さんと深谷で青をめぐる旅