近代日本経済の父 渋沢栄一
実業家の出発点
栄一の家は農家、養蚕のほかに藍玉を製造していました。藍の葉を仕入れて、藍玉という染料にして売るのです。栄一もよく父親の供をして藍葉の仕入れの旅に出ていました。
栄一が14歳の時、栄一と祖父とで買出しにでかけましたが、生意気ざかりの栄一は祖父を残し、一人で買い付けに行きました。
最初は栄一を相手にしなかった農家の人たちも、「この葉は肥料が足りないね。これは乾燥が不十分だね。」と言う栄一に驚き、栄一は上質の葉を安く仕入れたそうです。
倒幕から幕臣へ
当時は、幕府の御用金調達と称して、領主が富裕な領民に金を供出させることがたびたび行われていました。栄一が17歳の時、富農であった渋沢家は、血洗島の領主から500両の御用金を差し出すように申しつかりました。父親の代わりとして岡部藩の代官所に出頭した栄一は、役人のごう慢な態度に正論で対抗しました。この時のやりとりから「侍が威張るのは、結局は幕政が悪いからだ、階級制度が間違っているからだ。」という結論に達しました。こんな体制への反発が栄一を「倒幕」の意識に駆り立てていくのでした。
栄一は、近郷きっての知識人で10歳上のいとこ尾高惇忠、惇忠の弟である長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城を乗っ取り、徳川幕府を倒すという計画を立て準備をはじめました。しかし長七郎は京都での見聞から、この計画に反対し、結局この計画は中止になりました。
栄一は24歳の時、喜作とともに、世の情勢を探るため京都に向かいました。元治元年(1864年)、かねてより懇意にしていた一橋家の重臣、平岡円四郎の勧めで一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)に仕官することになり、一橋家では歩兵の募集、財政の改革、新しい事業の運営などで頭角をあらわしていきました。
ヨーロッパ派遣
慶応3年(1867年)、栄一は、ナポレオンⅢ世の開くフランス・パリの世界大博覧会に招待された将軍の名代として参加する徳川慶喜の弟、徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行しました。
好奇心旺盛な栄一は、ヨーロッパに滞在中にチョンマゲを切り、洋装に変え、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見学しました。進んだヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けました。
このヨーロッパ視察が、栄一の人生を大きく変えたのです。
官界から実業界へ
栄一は、帰国(明治元年)後、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を駿府(現在の静岡県)に設立しました。翌年には明治政府の高官・大隈重信の説得で大蔵省に出仕し、国家財政の確立に取り組みましたが、官界の硬直した体制に限界を感じた栄一は大蔵省を4年で辞め、実業界へ転身し、第一国立銀行をはじめ、約500社の設立に関与しました。
栄一の生涯を通じての基本理念は「論語」の精神(忠恕のこころ=まごころと思いやり)にあり、単なる利益追求ではなく、「道徳経済合一」による日本経済の発展でした。ここに実業界の指導者としての栄一の偉大さがあるのです。
慈悲のこころ 社会福祉活動
栄一は社会福祉事業にも熱心でした。栄一は明治7年(1874年)のとき、東京府からの要請で、身寄りのない子どもや老人を養う施設である「東京市養育院」に関わり、以来92歳の天寿をまっとうするまで56年間も熱心に養育院の院長を務めました。また、孤児院の「埼玉育児院」、精神薄弱児施設「滝乃川学園」の設立・運営、「救護法」の制定などにも力を尽くしました。
教育にも力を入れ、東京商法講習所(現・一橋大学)の経営にも尽力しました。また、日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立委員にもなりました。
栄一は医療施設の整備にも情熱を燃やし、東京慈恵医院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)、恩賜財団済生会、財団法人聖路加国際病院、日本結核予防協会などの設立と運営にも関わりました。
国際交流にも尽力
昭和に入り、日米関係が悪化してきたことに心を痛めていた栄一に、アメリカから人形による国際交流を行い、日米友好を図りたいという依頼がきました。栄一は外務省などと連携し「日本国際児童親善会」を組織し、アメリカ側から12,739体の「青い目の人形」を受け入れました。この人形は全国各地の小学校へ送られ、大歓迎を受けました。
後に、返礼として58体の日本人形がアメリカへ贈られました。現在「青い目の人形」は埼玉県内の小学校などに12体(全国で270体余)が保存されています。
また、栄一は第18代アメリカ大統領グラント、救世軍ウィリアム・ブース、中国の政治指導者・孫文など、世界の著名人とも親交がありました。
論語の里
栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、生涯を通して論語に親しみました。
初め父親の渋沢市郎右衛門に論語を学びましたが、7歳頃から尾高惇忠に習うようになりました。栄一が惇忠の家に論語を習いに通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれるようになりました。
この「論語の道」周辺には、栄一ゆかりのある史跡等が数多く残されており、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。
『論語と算盤』
1955年刊
渋沢史料館所蔵
栄一と富岡製糸場
殖産興業を進める明治政府は、明治3年(1870年)、貿易による外貨獲得のため、模範的な洋式製糸工場の建設を計画しました。富岡製糸場設置主任の栄一らの主導のもと、尾高惇忠が創立責任者に任命され、またフランス人技師ポール・ブリュナを建設技術者に迎え、現在の群馬県富岡市に建設が進められました。2年後に富岡製糸場が完成すると尾高惇忠は初代の所長となりました。
この富岡製糸場は、2014年6月の第38回世界遺産委員会において、世界遺産として登録されました。
栄一の雅号「青淵(せいえん)」の由来
栄一の生地「中の家(なかんち)」の近くに「上の淵(かみのふち)」と呼ばれる青々とした深い淵があったことにちなみ、「青淵」と命名されたと言われています。
栄一とレンガと深谷市
深谷市では、渋沢栄一の感性と情熱を継承し、市民が誇れる美しいまち、次代に引き継がれる個性豊かなまちをつくるため、JR深谷駅舎や深谷市総合体育館(深谷ビッグタートル)など、レンガを使用した施設づくりを行っています。
深谷市のレンガ史は、栄一が明治20年につくった日本煉瓦製造会社の工場に始まります。日本煉瓦製造会社で製造されたレンガは、明治時代の代表的な建築である司法省(現法務省)・東京駅・日本銀行・赤坂離宮・旧東京裁判所・警視庁などに使われ、また栄一ゆかりの大正時代の名建築物である誠之堂(せいしどう/国重要文化財)にも使われました。
煮ぼうとう
昔から深谷に伝わる郷土料理「煮ぼうとう」。
手打ちの平麺にネギや大根、にんじんなどの野菜がたっぷり入った、しょうゆ味のうどんです。栄一も好んで食べたといわれています。
深谷市内の飲食店で「煮ぼうとう」が味わえます。深谷にお越しの際には、栄一が食べた郷土の味を、ぜひご堪能ください。
年表
青春時代
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主なできごと | 日本と世界の動き |
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1840年 | 天保11年 | 0 | 2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれる。 | アヘン戦争勃発 |
1858年 | 安政5年 | 18 | 従妹ちよ(尾高惇忠の妹)と結婚。 | 日米修好通商条約・安政の大獄 |
1863年 | 文久3年 | 23 | 高崎城乗っ取り、横浜焼き討ちを企てるが計画を中止し京都に出奔。 | 井伊大老暗殺(1860) |
1864年 | 元治1年 | 24 | 一橋慶喜に仕える。 | 外国艦隊下関を砲撃 |
1867年 | 慶応3年 | 27 | 徳川昭武に従ってフランスへ出立(パリ万博使節団)。 | 大政奉還、王政復古 |
1868年 | 明治1年 | 28 | 明治維新によりフランスより帰国、静岡で慶喜に面会。 | 戊辰戦争(1868~1869) |
1869年 | 明治2年 | 29 | 静岡藩に「商法会所」設立。 明治政府に仕え、民部省租税正となる。民部省改正掛掛長を兼ねる。 |
東京遷都 東京・横浜間に電信開通 |
実業界を指導育成した時代
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主なできごと | 日本と世界の動き |
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1870年 | 明治3年 | 30 | 官営富岡製糸場設置主任となる。 | 平民に苗字使用許可 |
1872年 | 明治5年 | 32 | 大蔵少輔事務取扱。抄紙会社設立出願。 | 新橋、横浜間鉄道開通 |
1873年 | 明治6年 | 33 | 大蔵省を辞める。第一国立銀行開業・総監役。 抄紙会社創立(後に王子製紙会社・取締役会長)。 |
国立銀行条例発布 |
1875年 | 明治8年 | 35 | 第一国立銀行頭取。商法講習所創立(現一橋大学)。 | |
1876年 | 明治9年 | 36 | 東京会議所会頭。 東京府養育院事務長(後に院長)。 | 私立三井銀行開業 |
1877年 | 明治10年 | 37 | 択善会創立(後に東京銀行集会所・会長)。 | 西南戦争 |
1878年 | 明治11年 | 38 | 東京商法会議所創立・会頭(後に東京商業会議所・会頭)。 | |
1879年 | 明治12年 | 39 | 大阪紡績会社の設立に尽力する。(開業は1883年) グラント将軍(元第18代米国大統領)歓迎会 |
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1881年 | 明治14年 | 41 | 東京大学文学部講師として「日本財政論」を講義。(以後三ヶ年に及ぶ) | |
1882年 | 明治15年 | 42 | ちよ夫人死去。翌年、伊藤兼子と再婚する。 | 日本銀行営業開始 |
1884年 | 明治17年 | 44 | 日本鉄道会社理事委員(後に取締役)。 | 華族令制定 |
1885年 | 明治18年 | 45 | 日本郵船会社創立(後に取締役)。 東京養育院院長。東京瓦斯会社創立(創立委員長、後に取締役会長) |
内閣制度制定 |
1886年 | 明治19年 | 46 | 「竜門社」創立。 東京電灯会社設立(後に委員)。 | |
1887年 | 明治20年 | 47 | わが国初の機械式煉瓦製造となる日本煉瓦製造施設株式会社(深谷市上敷免)を設立する。 | |
1896年 | 明治29年 | 56 | 京釜鉄道会社の設立に尽力する。さらに三年後には京仁鉄道会社合資会社を設立する。 | |
1897年 | 明治30年 | 57 | 澁澤倉庫部開業(後に澁澤倉庫会社・発起人)。 | 金本位制施行 |
1900年 | 明治33年 | 60 | 日本興業銀行設立委員。 男爵を授けられる。 | |
1901年 | 明治34年 | 61 | 日本女子大学校開校・会計監督。(後に校長) | |
1902年 | 明治35年 | 62 | 兼子夫人同伴で欧米視察。ルーズベルト大統領と会見。 | 日英同盟協定調印 |
1906年 | 明治39年 | 66 | 東京電力会社創立・取締役。 京阪電気鉄道会社創立・創立委員長(後に相談役)。 |
鉄道国有法公布 |
1907年 | 明治40年 | 67 | 社団法人東京慈恵会を設立し、理事・副会長として尽力する。 | 恐慌、株式暴落 |
1908年 | 明治41年 | 68 | 八基小学校にて「一村の興隆と村の自治的精神」と題し講演を行う。 中央慈善協会(現在の全国社会福祉協議会)が設立され会長となる。 |
社会公共事業に尽力した時代
西暦 | 和暦 | 年齢 | 主なできごと | 日本と世界の動き |
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1909年 | 明治42年 | 69 | 古稀を機に多くの企業・団体の役員を辞任。 渡米実業団を組織し団長として渡米。 タフト大統領と会見。 |
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1911年 | 明治44年 | 71 | 勲一等に叙し瑞宝章を授与される。 | |
1912年 | 明治45年 | 72 | 帰一協会成立。 | |
1914年 | 大正3年 | 74 | 日中経済界の提携のため中国訪問。 | 第一次世界大戦勃発 |
1915年 | 大正4年 | 75 | パナマ運河開通博覧会のため渡米。 諏訪神社(深谷市血洗島)に拜殿を寄進する。 |
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1916年 | 大正5年 | 76 | 喜寿を機に実業界を引退。 「論語と算盤」を刊行する。 |
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1917年 | 大正6年 | 77 | 日米協会創立・名誉副会長。 | 事実上の金本位停止 |
1918年 | 大正7年 | 78 | 渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』(竜門社)刊行。 | |
1919年 | 大正8年 | 79 | 協調会創立・副会長。 | ヴェルサイユ条約調印 |
1920年 | 大正9年 | 80 | 国際連盟協会創立・会長。子爵を授けられる。 | 株式暴落(戦後恐慌) |
1921年 | 大正10年 | 81 | 排日問題善後策を講ずるため渡米。ハーディング大統領と会見。 | |
1923年 | 大正12年 | 83 | 大震災善後会創立・副会長。 二松学舎にて論語講義をする。(以後三ヶ年に及ぶ) |
関東大震災 |
1926年 | 大正15年 | 86 | 11月11日の平和記念日にラジオ放送を通じて、平和への訴えを行う。(以降恒例となる)ノーベル平和賞候補となる。(翌年も同候補となる) | |
1927年 | 昭和2年 | 87 | 日本国際児童親善会創立・会長。日米親善人形歓迎会を主催。 | 金融恐慌勃発 |
1929年 | 昭和4年 | 89 | 宮中に参内し、御陪食の光栄に浴する。 | 世界大恐慌はじまる |
1931年 | 昭和6年 | 91 | 11月10日正二位に叙せられる。11月11日永眠。 | 満州事変 |